「殺した」という自覚
最近非常に気になっていたニュースです。
岩手県議員の小泉光男さんが自殺に追い込まれたというニュースです。
ほとんどのニュースでは「自殺した」となっていましたが、あえて僕は「追い込まれた」って書きます。
僕は完全にあの人は「殺された」って思っています。
まったく関係のない、第三者の過剰な追求のせいで。。。
小泉議員は以前病院の対応に関する苦情をブログに載せたのがきっかけで、大炎上させてしまった人です。
ブログ掲載後は以下のようになっていたそうです。
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ブログで自身が「思慮に欠けた不適切な表現」と謝罪した内容を書き込んだのは5日。県議会や県には、14日までに非難のメールや電話が469件寄せられ、小泉県議は17日に謝罪会見を開いた。その後も非難はやまず、21日までに762件に増えた。ある県議によると、小泉県議の事務所だけでなく、他の県議にも「県議を辞めさせろ」などと電話がかかってきたという。
毎日新聞より抜粋
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6月25日の早朝に遺体で見つかりました。
小泉議員の書いた記事は確かに避難されても仕方がないものであったかもしれません。
しかし、追い込まれるほどに過剰な非難がなされていたということを自覚して、ネットで非難をしていた人は何人いるのでしょうか。
ネットの怖さってここにあると思っています。
多くのソーシャルメディアが発達して、僕たちは気軽に意見を発信できるようになりました。
発信する側は、「自分一人」による発信です。
でもそれを受け止める側にとっては、そんな「一人の意見」が何千も何万も届いているのです。
FacebookやTwitterで発信する側、にとってはフローの情報です。
しかし、非難の対象になる人間にとっては、まぎれもなくストックの情報となっているのだという自覚を持つ人は何人いるのでしょう。
その辺のギャップって、もっと自覚したほうがいいんじゃないかなって思います。
当事者でもない人間がある問題に加入するということは、本当に危険を孕む行為です。
ネットによって第3者が容易に口出せるっていうのも考え物な気がします。
今までなら当事者間の争いに介入できるのって警察と司法くらいだったんですよね。
そういう専門家でさえもときに失敗をする。
あることに介入するのって、そのくらい本当は慎重にしなくちゃいけない行為なんですよね。
それを何も考えずに一般の人間が誹謗中傷を繰り返す。
非常に怖い行為です。
小泉さんの件に限らず、桜ノ宮高校の生徒に対する批判も、大津いじめ事件に対する加害者への批判もそう。
自分たちが、人を容易に追い込むツールを持っている。
どんなメディアリテラシーを叫ぶより、そんな視点を一つ持つほうが、ずっと大切であるように思います。
じゃないとまた、情報で人を殺すことになる。
ご冥福をお祈りします。