B級コラム編集部

身近な関心ごとから社会問題まで。興味のあることにツラツラとひねくれた意見を書いています。

ゲーム理論の不完全な所

経済学の有名な理論の一つに、合理的な個人のとる行動を体系化した、ゲーム理論というものがあります。
一番有名なものは、「囚人のジレンマ」というやつ。
仮に二人組の強盗が捕まったとして、黙秘し続けたら懲役0年、自分が自白して、相手が自白しなければ懲役3年。
自分は黙秘を貫いて、相手が罪を認めた場合は自分の懲役は8年、両者が罪を認めた場合は二人とも懲役5年半。
こんな条件下で、強盗の二人がどういう行動をとるのかを研究したのが「囚人のジレンマ」と呼ばれるものです。

本当は両者とも黙秘を貫けば一番いいのだが、相手が自白するリスクを恐れて、黙秘を貫けない。
結果として両者とも、黙秘するリスクを恐れて自白するという、一見非合理な選択をするというものです。


これ、結構いろいろな所で使われていて、人間の行動を分析するのに有効な手段として考えられています。
ただ僕がふと思ったのは、分析したい対象には、意外と「合理的でない個体」が多いのではないかっていうこと。
別に能力がないから合理的判断を下せないというような意味ではなく、別の価値観に従って生きているからという意味で、です。
合理的判断を下しながら生きる事が正しいと考えている人を分析する際には
非常に便利なこの理論。
でも、必ずしも合理的個人という前提にのっかった人ばかりではないと思うのです。
その代表が落語の世界に出てくる人たちとイスラム教。

基本的に落語の世界に出てくる人々は、「義理と人情」「粋」という概念に則って生きています。
そのため、時として自分の生活やこれからの事はほったらかし。
目の前の祝い事や、喧嘩で全てを棒にふるなんて人たちが沢山出てきます。
今でもこういう気質の人って、意外と多くいるんじゃないでしょうか?
坂上忍さんとか、亀井静香さんとか。



それからもう一つのイスラム教を信仰する人。
断っておきますが、僕はイスラム教を非難するつもりはありません。
ただ、価値観の違いを伝える手段として選んだだけです。
イスラム教の教えは基本的に生きているうちに、悪い事よりもいい事の方が多く行っていれば天国へいけるというものです。
だから、過ちを犯してしまったら、その分人のためになることをしなさい、と。
で、信仰する人は死後最後の審判の日が訪れた時に、現世での行いに基づいて天国行きと地獄行きとに分かれます。
基本的にはその日まで、全ての人は天国にも地獄にもいけないのです。
しかし例外があります。
その一つが「信仰を貫くために命を落とす」こと。
イスラム教を守るために命を落とした人々は、例外的に死後すぐに天国へといけます。
こうした教えがあるから、テロのような事が時としてできるのです。
理解できないって人も多いのだろうと思います。
しかし、事実だけを見た時にこういう価値観に沿って生きている人が一定数存在するのです。
それが良い悪いなんていう、ナンセンスな議論はもちろん僕はここでやる気なんてありません(笑)
だってそんなの個人の寄る辺にしている価値観が決めることだから。

ゲーム理論は、このような価値観を持つ人に対しては、極めて無力になるんじゃないかって思います。


これってゲーム理論に限らず、近代経済学全般に言える事なのではないでしょうか?
近経が生まれた当時は今ほどグローバルな世界ではなかったため、基本的に自分の生活圏には同じ様な価値観の人が多かった。
ヨーロッパなんてまさにそう。
だからきっと、「合理的個人」っていう前提がすんなり立てられたんですよね。
でも世界にはそういう価値基準で生きていない人もいる。
そういう人たちに西欧のロジックを当てはめて分析しても上手く行くわけがありません。
もちろん、ゲーム理論とかって、むちゃ便利なツールだと思うので一つの手段として持っておくべきだとは思いますが、同時にそれに当てはまらない「例外」が悪みたいな先入観は捨て去った方がいいんじゃないか。
そんな風に思いました。
時として、寄る辺としているセオリーの方が不完全である場合もあり得るのだから。
少なくとも、ゲーム理論は死後の世界を想定されていないですよね。
こんな事、茂木健一郎さんがおっしゃってました。