B級コラム編集部

身近な関心ごとから社会問題まで。興味のあることにツラツラとひねくれた意見を書いています。

都知事に求めるチカラ

<時事ネタまくら>
談志さんの落語のまくらに倣って、話の初めに時事ネタはさんで見る事にしました。
気になったニュース記事と簡単な考察を載せて行きたいと思います。


1.ホームレスを雇う除染請負企業は悪徳なのか。
第7次下請けとかも問題だけど、何より原発関連の仕事につく人の給与をもっと上げるべきだと思います。
感情として、あんな事故起こしてけしからんってのはわかりますけど、そればかり言ってると原子力に優秀な人材が行かなくなる。
今必要な事は事故の早期収束です。
そう考えるなら、給与あげて少しでも優秀な人材がくる様すべきだと思います。

2.地方受験生の東大離れが顕著
考えられる理由は二つ。
ひとつ目は景気回復で私立思考が回復した。
もうひとつは震災以降、多少学力が低くても、費用が高くても、家族のそばにいたいという思考の人がふえた。
だと思います。
さらに直感ですが、後者を求めているきがします。

元からちょいちょい面白い用例を載せていて、辞書ファンの間では密かな人気であった三省堂さんの辞書(笑)
今度の改定で「w(笑うの意味」や「てか(っていうかの略)」を載せた様です。
言葉は時間と共に変わる物って事と、時代に合わせて用例を変えるっていうのが何か刺さりました。

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<薄口コラム>

猪瀬さんの後の都知事選、舛添さんや宇都宮さんに続き、田母神さんも立候補しましたよね。
他にも元オリンピック選手の野田聖子んや元お笑い芸人の東国原英雄さんも出馬するとかどうとかって声がちらほら聞こえてきます。

もちろん第一は東京都民の生活の向上ですが、否が応でも注目されるであろう事は、東京オリンピックに対する対応です。
多分それは国内だけでなく、国外からも注目される内容であると思います。

東京オリンピックについて考えるとき、僕たちはついつい日本にとってどんな五輪にしたいかばかりを考えてしまいますが、同時に世界は何を期待して東京を開催地に選んだのかも考えてみないといけません。

いろんな考え方があるとは思いますが、僕は大きく二つの理由で東京に決まったと思っています。


ひとつはネガティブな側面。
マドリードイスタンブール、東京って、ある意味どこもキズ有りの地域なんですよね。
マドリードはギリシャ危機の懸念が残り。
イスタンブールは紛争の火がくすぶり。
そして東京は放射能

紛争と経済危機は目に見えるリスクです。
対して放射能は少なくとも目には見えない。
目に見えるリスクと目に見えないリスクを比べたら、目に見えない方がまだマシって考えで東京が選ばれたのではないか?
これが東京オリンピック決定のネガティブな予想。


一方ポジティブな捉え方。
東京オリンピック決定は、海外が日本に向けた期待とエールの表れだって考え方です。
震災でひどく傷つき、大変だと思うけれど、第二次世界大戦後一丸となって発展したあの力強さ、そして震災への対応の姿を見ていたら、きっと2020年までには立ち直り、再び輝きを取り戻すことができるだろう。
私たちはそう信じていますっていうメッセージとしても捉えられなくはない様に思います。

もちろん真偽はわかりません。
でも、どうせオリンピック開催が決まったなら、ポジティブに捉えたいじゃないですか!

そんな風に捉えたら、オリンピックを成功させるのに適した知事像も少し見えてくる気がします。

きっとそれは、オリンピック経験者とかスポーツ推進派ではないんですよね。
そうではなくて海外に対して日本、そして東京をしっかりとアピールできる力を持った人が理想のハズです。

つまり海外に対する発信力が強い人。

そう考えると、野田さん、宇都宮さんじゃあちょっと弱い。

かと言って舛添さんや田母神さんは違いますし(笑)

もちろん都知事の仕事の本義は東京の安定にあるのは承知ですが、それでもやっぱり海外に発信力がある事は大きな役割のひとつだと思います。

それを踏まえて出てくる人って、誰かいるのかなぁ?
案外、北野武さんとか、いいのかもしれません。


東京オリンピック開催に対して、否定的な意見も多くみられますが、やっぱり決まった以上はポジティブに捉えたいですよね。
東京を虫の目で見て、同時に世界の中での日本を鳥の目で見ることができる。
そんな知事に期待です。


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<お勧め本>
最近読んだ本で、面白いと思った物を紹介したいと思います。

第2回 ユリイカ2011年11月臨時増刊号 まどかマギカ 魔法少女に花束を

詩や文学作品の評論が載っている月刊誌です。
この前本屋さんで偶然過去の奴を見つけて購入しました。
200ページ以上に渡り、まどかマギカについていろんな評論家が分析しているので、まどマギファンにはたまらないと思います。
僕がなにより面白いと思ったのは、いい作品程、見た人に解釈の幅があるんだということです。
まどかマギカにしろ風立ちぬにしろ、見たあとに人に語りたくなる。
それだけ自分で考える余地があるってことだと思います。
この本では家族感から考察したもの、美術設計に言及したものなど、様々な角度からひとつの作品を見ています。
文芸批評のやり方のベースとしても面白い本なので、興味があれば是非読んで見て下さい!

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<駅前スナップ>
趣味で撮りためた全国の駅の写真です。
何処かにまとめたかったのですが、ちょうど適したところがみつからなかったので、ここで紹介させて下さい(笑)



僕が最も好きな駅のひとつです。
九州の西の端のため、線路がここで止まっています。
駅はドームに囲まれていて、どこか異国のような空気になっています。
何よりも僕が好きなのは、駅の改札からみた長崎の街並みです。
駅前から山肌にバッと家が立ち並んでいる絵が何とも言えず心に残っています。
「海の見えるまち」ってこういうものなんだなって感じさせてくれる街並みです。
同じく路面を走る電車も印象的。
原爆祈念公園に向かうために路電にのると、車と並走したと思ったら緑の芝生の上を行き、ビルの間をくぐったりと、ちょっとしたテーマパークみたいな構造で道を進みます。
始めて行くと、むっちゃワクワクします!

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<あとがき日記>
去年の年末に知り合った人とクラシックの話をして以来、クラシックを弾くことにハマってしまいました(笑)
中学校時代はあの決められた通りに引かなきゃいけないのが嫌で堪らなかったクラシックピアノが、久しぶりに見ると、その完成度の高さに逆に引きつけられるんですよね。
特にトロイメライソナタ悲愴なんかの、縦の音作りとか神がかってます!!
あれ、本当に考え抜かれた音配置で、楽譜見るたびに「これは自分には作れないわ」っていう敗北感に襲われます(笑)
JAZZっていう自由度を根幹にした物と、作曲をしてきたからこそ、また違った角度でクラシックを楽しめる様になったんだと思います。
ただ老けてきただけなのかも、、、

問題意識って言葉から「意識」をとってみる

<時事ネタまくら>
談志さんの落語のまくらに倣って、話の初めに時事ネタはさんで見る事にしました。
気になったニュース記事と簡単な考察を載せて行きたいと思います。


1.楽天全社員英語TOEIC800点義務化
楽天みたいに役員から英語を公用語化するっていうのはいいなって思います。
会議が多く、外国人もいるのにいちいち通訳いれたり理解に戸惑ってたら時間のロスが半端ないですし。
一方で、なんちゃって英語化企業も多い気が、、、
知り合いが某大手企業を受けたとき、英語面接が課されたのですが、相手がペーパーの棒読み。話した内容もあまり理解されてないように感じたと言っていました。
形だけの英語化にらならないようにするのが大切だと思いました。


2.渡辺美樹氏、資産突出17億円
で、何を伝えたいんだろう?(笑)
別にもと経営者なんだからその額は妥当な気がします。
それより、「資産17億」って数字の話から何を伝えたくて記事にしたかったかが全然わからない。
最近こういう記事、多い気がします。



3.ホリエモン「泣く子供に睡眠薬飲ませればいい」発言で炎上
睡眠薬は言い過ぎですが、新幹線で泣く子供の親が何も対応しないのって、本当に腹が立ちますよね。
子どもでなくて、親に対する怒りがメインの内容だと思います。
それとは別にもう一点。この睡眠薬発言、前後を見れば海外の友人の気遣いの例で挙げたもの。言葉を切り取られたっていう例な気がします。


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<薄口批評>
選挙について塾の先生と話していて思ったことです。
選挙の投票率って高くなければいけないのか?

ここ最近の選挙をみていると、その度に投票率が下がってきていますよね。
特に若者の投票率が少ないのだとか。
これに関しては若者の投票率が少ないってか、純粋に30以上の人の人口のが圧倒的に多いのだから、数字見たら若者の投票率が少なくなるのは当たり前ではという考えはおいといて、、、


そもそも投票率が低いって言うのがどういう事なのかっていう視点で選挙について見てみてもいいんじゃないかなって思ったりします。
たとえば投票行動=現状に不満がある事の意思表明として考えます。
そうすると、選挙にいかない=別に大きな不満はないって事になります。
「税金上がるは賃金上がらねぇーわ、年金もらえなさそうだし政治家グチグチやってるけど、まあなんだかんだ言って生活できてるし」
って位の人、多いと思うんです。

つまり、世間ではいろんな事が問題だって言われているけれど、実生活ではそれ程の不満の種にならないって事。
実際僕の一月の生活費は家賃とか抜いたら5万円弱。
消費税が10%になって2500円多く取られるようになっても、正直あんまり変わらないです。
別に飲み会を一回分宅飲みにすればいい位の値段差です(笑)

選挙にいかない人が増えると、政治に問題意識を持たないのはけしからんっていう人がいますが、多分投票いかない人って、政治に問題意識がないんじゃなくって、今の政治で問題ないって思ってるんですよね。

もし今の安倍政権が「高齢者の生きやすい国を作るために、私たちは若者の最低賃金を引き下げ徴兵制を採用いたします」とか言ったら、絶対皆投票行きますよ(笑)
それは、政治に「問題がある」から。


今投票いかない人は「政治に問題意識が無い」から行かないんじゃなくて、「政治に問題がない」と思うから行かないんですよね。

「国民の50%程しか政治に問題意識を持ってない」って言うと国の危機みたいに聞こえますが「国民の50%程しか政治に問題を感じていない」って言ったら良く聞こえるじゃないですか(笑)
ようは言い様。


高い投票率は民主主義の前提だって言われる事もありますが、どうでしょうか?
高い投票率の国って言うとエジプトやロシアetc...
「民主主義の前提」なんですかね?(笑)
因みに北朝鮮投票率100%なのだとか。

興味のない人がテキトーな情報だけで選挙いくより、興味ある人たちだけが選挙行って国を回していた方が案外安定しそうな気がします。
そんなわけで投票率50%って、僕はそんくらいでちょうどいいと思います。


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<お勧め本>
最近読んだ本で面白いと思った物がある時は載せてみたいと思います。

第1回 内田樹「街場の憂国論」


哲学・思想家の内田樹さんの本です。
経済畑ではない内田先生がみる、将来の経済の在り方が、視点がユニークで面白かったです。
今の経済のきっかけになった貨幣そのものに疑問を投げかける事は、おそらく経済を少しでも齧ってしまった人には出てこない視点でしょう。
そういう当たり前となってしまっている所に意外な問題提起をして、新たな視点を気づかせてくれる面白い本です。

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<駅前スナップ>
趣味で撮りためた全国の駅の写真です。
何処かにまとめたかったのですが、ちょうど適したところがみつからなかったので、ここで紹介させて下さい(笑)
1.東京駅



特に理由はなかったのですが、まあ1番先頭にはやっぱりこれがふさわしいんじゃないかって思ったので東京駅を選びました。
明治から続く建築、被災地で作った瓦など、とても見所のある建築物です。
因みに八重洲口側はビルになっています。
丸の内側からでないと、これは見られないので気をつけて下さい。
丸の内中央(?)から入ったところの天井の装飾も必見です。
(まあ、以前芸術新潮で酷評されてましたが...)




初回なのでもう一駅(笑)
神奈川県の鎌倉駅です。
駅舎と街並みがピッタリマッチしています。
駅を出てまっすぐ行けば大仏の所に向かう道に着き、左手の細道に入ればお店街を通って大仏に向かえます。
どこかレトロな感じを醸している鎌倉駅です。

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<あとがき日記>
ってことで、新年になったのでブログの書き方を変えてみました。
飽き性なのでどうせすぐ元に戻すとは思うのですが、しばらくはこの形でやってみたいと思います。

年末年始と久しぶりに頑張ってリア充をやったのですが、お陰様で色んな人と話し、たくさんの情報や着想の種が得られました。
やっぱり人と会わなきゃダメですね、、、
そんなわけで今年の目標は「自分で動く」と「やりたい事を口にする」に決めました。
元々僕は流れで行き着いた所で自由にやらせてもらうというスタンスで生きてきたのですが、ちょっとそれでは限界がある、上にいけないと思ったので、ステップアップする事に決めました!
このブログも今後のやりたい事の伏線で形式を変えた次第です。
そんなわけで、今年も宜しくお願いします。

ふなっしーが非公認なワケ

塾で授業をしていると、なぜかよく「センセーは○○についてどう思う?」って聞かれます。



黒子のバスケの脅迫状についてどう思う?」とか

「食品偽装についてどう見る?」とか

半沢直樹はなんでヒットしたの?」とか(笑)



多分ふだんから話があっちゃこっちゃに飛ぶからだと思うんですけど、、、



で、今日聞かれたのがタイトルに書いた「ふなっしー」についてです。

流行語の話の流れでふなっしーの話になりました。

なぜふなっしーが公認キャラにならないのかという話題に関して、結構いろんなアイデアが出てきたので、書いてみたいと面白います。







まず、公認キャラにならないということの前に、ふなっしーがなぜゆるキャラとしてあんなに人気になったのかを考えてみたいと思います。



2009年くらいから、少しずつゆるキャラがブームになってきました。

(ぼくはその理由はSNSの発達にあると思っているのですが、今はカンケーないのでここでは置いときます。)



彦にゃん、くまもん、せんとくん



各地のご当地キャラに注目が集まりました。

そんな中でひときわ異才を放って登場したのが、船橋市非公認ゆるキャラのふなっしーです。

テレビに登場するなり爆発的な人気になりました。



ふなっしーが他のゆるキャラを押しのけて人気になった最大の理由は「喋るゆるキャラ」だったというところにあると思います。

今までのゆるキャラは殆ど喋りませんでした。

そこに突如よく喋るゆるキャラが出てきた事で、注目を集めたんじゃないかと思っています。



喋るゆるキャラの利点は、単に物珍しさだけではありません。

ふなっしーは喋るということで、テレビにも取り上げられやすかったのです。

バラエティのトークもいけるということで、他のゆるキャラと比べ圧倒的にメディア露出を増やしていきました。

よく喋り、よく動くという所が、非常に戦略的に上手いなって思います。







瞬く間に人気を得たふなっしーですが、船橋市の公認ゆるキャラにはしてもらえません。

何故なのか?

その最大の理由は、ふなっしーが人気になったポイントの「喋ることができる」ことこそが、最大の欠点になっているのではないかと思います。



確かにメディア露出という点では、喋るゆるキャラという立ち位置は非常に強い利点です。

しかし、ご当地のマスコットとしては

話せることは大きな足かせになると思うんです。



その理由は、ずばり「替えが効かない」から。

ゆるキャラが喋るということは、当然中に入っている人が同じでなければなりません。



ご当地マスコットの最大の使命は「地域のPR」をすること。

当然PRのためにイベントに参加したり、時には複数の場所に出向かなければいけません。

そうしたマスコットの特性を考えた時に、中に入っている人がいつも同じでなければ成り立たないふなっしーは大変使いづらいのではないかと考えました。





もう少し掘り下げて、マスコットキャラクターの存在意義について考えてみます。

ディズニーのミッキーマウスは、本当に世界のどこかに実在するキャラクターということになっています。

それはひこにゃんにしてもくまもんにしても同じこと。

子供達に夢を与えるために存在するマスコットキャラクターは、本当に生きているんだという暗黙の了解を持っていなければなりません。

ふなっしーはそういう観点からすると、逸脱しすぎていると思うのです。



例えばあまりに流暢に喋ったり、大人の事情を話して笑をとったり、何より背中のチャックの存在をネタにしています。

これは言わば前提そのものを利用して演出を作るメタフィクションの世界。

ふなっしーはメタフィクションありきで人気を手にしたゆるキャラなのです。



もちろんテレビやパソコンの中の登場人物としてならば、そういうメタ的な立ち位置は大変楽しめます。

しかし、それがご当地キャラとしてリアルに出てきたらどうでしょうか?



子供達に夢を与える存在であるはずのマスコットが、前提を崩す事の上に成り立っている。

そんな危うい存在を市の公認キャラに選ぶのは、ちょっと勇気がいると思います。



こうした理由も、ふなっしーが公認ゆるキャラにしてもらえない大きな理由ではないかと考えます。



やっぱり身近な存在だからこそ、ご当地キャラは「らしさ」が大切だと思います。

僕らは自分たちの地域のゆるキャラは安心してみていたいんですよね。

そう考えるとふなっしーが公認にされるには、険しい道が続いているように思います。



こんな話をしていたら、生徒さんが「今度学校で今年話題になった事をテーマの発表があるんでそれ話します」なんて言ってくれました。



・・・よした方がいいと思うけどなぁ(笑)



年賀ハガキイノベーション

人の心が、年の始めに届く国。

去年の郵便局のキャッチコピーです。
いいなぁって思って広告スナップにしていた物をふと見つけたので紹介します。

凄くほっこりした一方で、頭に浮かんだのは「年賀状、要るか?」ってこと。

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今の時代年賀状ってどー考えても競合財が増えすぎていて、抜本的に変えない限り生き残れないと思うんです。
昔は確かに疎遠になった旧友や同僚に対する年に一度の近況報告みたいな形で結構役にたっていたと思うんです。
「あっ、娘さん結婚したんだ」とか「赤ちゃん産まれたんだ」とか、、、

でも今って、僕らそういうのその瞬間にSNSとかにアップしちゃうじゃないですか?
だから、年賀状で近況報告する必然性って全くなくなっちゃったんですよね。

コスト面から見ても手間の面からみても、やっぱりネットサービスに劣ってしまいます。
ネットなら大晦日に作って、午前零時にアップするだけでオッケー。
もちろん送る費用なんてかかりません。
そんな状態のネットに、一枚50円出してハガキを買って何週間も前にポストに投函して、それでようやっと届く年賀状宅配サービスなんて勝てます?

やっぱり実物の手触りがいいという言葉も聞きますが、今ってパソコンプリントのやつがほとんどじゃないですか?
両面プリント印刷なのに紙の方が暖かさが伝わるとか言ったら、そんなん喜劇ですよ(笑)

そう言うわけで、今まで通りの年賀状サービスではどうやったって勝ち目がない時代にきているように思います。
客観的にみたらどうしたって今のままの年賀状のサービスなんていらなくなるに決まってます。

なんかリアルな物でしか出来ない付加価値を付ける必要がある気がします。

ハガキに故郷の香りやいつも付けてる香水の香りが付いて贈れるとか
届いた年賀状の送り手の郵便番号を認証すると、その地域によって違うアニメーションが流れるみたいなアプリ作ってみたり
指定した言葉を手書きで代行するサービス作ったり
指定した何年後かの元日に自分に届く年賀はがきのサービスつくったり。


パッとうかんだのはこんなんばかりですけど、やっぱり何かしらサービスつくんないと年賀状なんて消えてまうと思います。

ご縁で繋がる評価社会

人と人との繋がりが、貨幣以上に大きな役割を持つ社会がやってくる。
最近むちゃくちゃハマっている、岡田斗司夫さんの「評価経済社会」という考え方です。
今まではすべての基準がお金になっていた。
しかしこれだけネットワークが張り巡らされ、情報が一瞬で広がるようになった世界では、貨幣ではなくその個人の評価によって商品の流通がなされるようになってきます。
例えば塾講師のAさんがお米を欲しいと思っていたとします。
するとコメ農家のBさんが、ちょうど余っているコメがあったのでAさんに譲りました。
後日、Bさんの息子がテスト前に勉強ができなくて困っていました。
そしたらAさんはコメのお返しにテスト勉強を教えてあげる。
こんな風に貨幣を介さず、自分の持つ物を無料で渡し合う事で成り立つような社会を評価経済社会と呼んでいます(岡田さんの真意と違っていたらすみません)。

そんなことしたら貰うばかりで何も返さない奴が出てくるのでは?と思われるかもしれませんが、高度に情報かした社会では、そういったあらゆる情報が一瞬で世界中に共有されます。
先の例の続きです話したとしたら、仮にAさんが人からコメや野菜を貰うばかりで、何もお礼をしなければ、「Aは何も返さない人だ」という情報が、あっという間にあらゆる人に広がります。
そのままにしておけば、徐々になんのお礼もないAさんには少しずつ物を譲ってくれる人が減ってきてしまうので、一方的に貰うばかりという人は発生しないのです。
逆に、いつも多くの所で人の助けをAさんが行っていたならば、Aさんの「いい評価」が広がります。
その評価が、Aさんの元に様々な人を呼び寄せ、結果としてより良い関係が増えていく事に繋がるのです。
価値尺度が従来の「貨幣」ではなく、「個人の評価」にシフトする。
それが岡田斗司夫の言う、評価経済社会の本質だと思います。

まあざっくり言ってみたら「物々交換」の社会と言えるでしょう。
で、なんでこんな話をしたかって言ったら、既に似たような事を実している知り合いを思い出したからです。

一年前くらいに知り合った方なのですが、その人が物々交換で成り立つ「ご縁経済」という考えを作り、コミュニティの中で実践している事を思い出しました!(笑)
その人が言っていたご縁経済のシステムをざっくりまとめると以下の通りです。
=============================
「経済」には本来いろいろな物があり、今の世界のスタンダードになっている貨幣経済という体系はそのひとつに過ぎない。
だとしたら貨幣以外の物が仲介になり、人と人を繋げる経済という物があっていいのではないか。
そう考えて僕たちは貨幣の変わりに「ご縁」を仲介機能に選んだ。
例えば炊飯器を欲しているAさんと炊飯器が余っているBさんがいたとする。
Bさんにとっては炊飯器を所有する事は無駄(コスト)で、Aさんが持っていた方がいい。
これを繰り返すと、貨幣の移動は全くないにも関わらず、価値移動が行われる。
つまり「経済活動」が営まれたことになる。
貨幣の変わりに「ご縁」を価値尺度にした経済システムが、僕たちの言う「ご縁経済」だ。
==============================

細かい言い方は違ったかもしれませんが、僕が話を聞いた方はこんな風な事を言っていました。
これって、本質は「評価経済社会」と一緒ですよね。
岡田さんの言うシステムに近い事を、を既に実行している知り合いがいた事もあり、評価経済社会という考え方にとても興味を持ちました。

っと、評価経済社会やご縁社会についてつらつらとまとめてみたのですが、人のアイデアを紹介するだけで、僕の意見が全く書かれていないですね(笑)
なので、ちょっとここからは僕の考えを、、、

僕が一番興味を持っているのは、これからの経済システムがどうなるかという事です。
岡田斗司夫さんの考えでは、これからの社会は貨幣経済はもちろん継続しているが、それとは別に評価経済という物が育ってくるとのこと。
僕はそれを、二つの経済システムが並走しているようなイメージで解釈しています。
現実的に十分ありえるだろうなって思いました。

それを踏まえて僕が考えたのは、貨幣経済と評価経済が並走するのなら、「他の物が仲介になる経済システムも出てくるのでは?」という事です。
具体的な案があるわけではないので漠然としていて申し訳ないのですが、 貨幣が価値尺度機能を務める「貨幣経済」、個人の評価が価値尺度になる「評価経済」だけでなく、時間が価値尺度になる「時間経済」とかみたいないろんな経済システムが乱立する社会になるのではと考えています。
人々は様々な経済システムで動くコミュニティを作り、複数に所属し生活を送ります。
所属するコミュニティの経済システムを上手く組み合わせ生活を送るような社会になるんじゃないかって思ったりします。

まあ、僕の雑すぎる意見はどーでもいいとして、僕が何より面白いと思うのは、今まで当たり前だった「貨幣経済」に疑問を持つ時代に入ったという事です。
産業革命以降、ずっとずっと前提とされ、疑う事すらなされなかった貨幣経済の地位がもし揺らいだとしたら、そのときが本当の意味でIT革命が起こったと言える時なんだろうなって思います。
そんな転換期に立ち会えるかもしれないという事を考えると、結構ワクワクしますよね。

「人の住めない福島」って発言自体は問題だけど

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/radioactive_waste/?id=6093650
「人の住めなくなった福島に」桜田副大臣発言撤回

桜田副大臣の発言に、非難が集まっているみたいです。
まあ確かに不謹慎ではありますが、個人的には批判する人が何に対して非難しているのかが気になります。
これって、「人の住めなくなった福島」という言葉に対して非難しているのか、「今後人が住めない地域が存在する」という意見に対しての非難なのかで、全然意味が違ってくる事だと思うんです。


前者の「人の住めなくなった福島」という言葉に対する非難であるならば、論点は「福島の中でも普通に生活できる地域が多くあるのに、そういった地域もまとめて『人が住めない』と言った事はけしからん」ってところになってくると思います。
(まあ桜田副大臣の言葉みたら「人の住めなくなった福島」なんて言ってないですが。。。正確には「人の住めなくなった福島の東京電力の施設」って言ってます。これ、メインになる名詞は「福島」じゃなくて「東京電力の施設」なんです。だからタイトルとして切り取られて、桜田副大臣の本意とは若干異なっている様にも思えます。でもひとまずそれは置いといて、、、)
確かに、この非難はその通りだと思います。
福島県全域を一括りにして「人が住めない」じゃあ、あまりにも住んでいる人たちに配慮がなさすぎです。
僕は震災以後何回か福島に行っているのですが、普通に楽しい街ですよ。
ご飯も美味しいですし(笑)
無意味な偏見を生まない様にするという意味では、「人の住めない福島」発言はちょっとマズいのかなって思います。



一方で、「人の住めない地域に廃棄物を置く」という主張を批判する人たちには僕は反対です。
「被災して避難を余儀無くされている人の気持ちを考えろ」とか「東電の不始末を県民にさせる気か」とか言われるかもしれませんが、永久に住めない地域が出てくる事は紛れもない事実だと思うのです。
確かに福島第一原発の20km圏外とかなら、今後住む事ができるかもしれません。
しかし20km以内は、事実上もう人が住めないと思うのです。
それはチェルノブイリを見れば明らかなこと。
じゃあ、住めないって分かっているのに「将来戻れる様に最善を尽くしています」って言って県民に期待を持たせたりすることは、かえって不誠実な気がします。
本当はみんなある一定地域に人が住めないって事くらいわかってるんです。
でもどこかそれを口してはいけないような空気になっている。
確かにその土地で暮らしていた人の気持ちを考えれば「一生戻れない」って言うのがどれほど酷な事かは分かります。
しかし、感情とは別に事実は事実なんですよね。
だったらそこは厳しくとも受け入れるしかないような気がします。
今必要な事は「どこまでは救って、どこからは(本当に申し訳ないけれど)切り捨てるか」っていう判断を思い切ってする事だと思います。
できもしない夢を国が語り、叶いもしない絵空事とわかっているのにそれを人々が指摘できないような現状では、きっと何も変わらない。
そういった意味で、「人の住めない地域に廃棄物を置く」という部分に対し非難をする事には、僕はちょっと反対です。


「放射能汚染の酷い地域に廃棄物を置く」っていう意見に反対する人は電力の恩恵を受けたのに泥かぶりだけその土地の人にさせるのかとかお前の住んでいるところに廃棄物をおいていいのかって言うけれど、それは根本的に違う気がします。
だって放射能汚染が酷い地域には「どうせ人が住めない」んだもん。(あえて言いました)
それでもそこに放射性廃棄物を置くべきじゃないっていうのは、全くもって非合理的です。
今後住めるようになるっていう希望を持っているから、「たとえ放射能汚染が酷い地域といっても、そこに放射性廃棄物を置くべきでない」ってなるのだと思います。
僕には、「もう一度住む」っていう(誰もが無理だと本心では分かっている)希望が、足を引っ張っているように見えてならないです。


今回の桜田副大臣に対する非難の声の大きさを見て、そう思いました。
よく、被災者の気持ちを考えろっていう意見を聞きます。
僕は被災者の気持ちを考えて、あえて誰かがヒール役になってでも、住めないなら住めないと現実を伝えるべきだと思います。

売れる缶コーヒーの作り方

最近コンビニでも自販機でも、似たり寄ったりの消費ばかりで、飲み物を買おうと思ったとき、逆に困ったりしてしまいます。
特にコーヒーと紅茶。
なんか、、、良くも悪くもつい手に取ってしまうっていうインパクトがない気がします。
それは多分色んな商品が出過ぎて、飽和状態だからっていうのもあると思いますが。
そんな区別のつかない缶コーヒーコーナーを見ていた時に、ふと思ったのが、「いっそ味の開発はそこそこに、缶のデザインに特化した缶コーヒーを作ったら売れるのでは?」という事です。

味はそこそこに、デザイン重視の缶コーヒーを作ったら売れるんじゃないかって思ったのは以下の二点が思い当たったから。
(1)競合財が変わってきている
(2)広告戦略てきに有効


(1)競合財が変わってきている
最近の人たちって、別に缶コーヒーを買う時に、特に味の良さなんて求めていないと思うんです。
これが多分、5年前とかなら缶コーヒーを選ぶ際の要素のひとつに「味」があったと思います。
それは競合商品が同じ「缶コーヒー」だったから。
でも今は、巷にスターバックスタリーズコーヒーが溢れ、コンビニに行けばそこそこ本格的なコーヒーが直ぐに購入できる時代です。
だから美味しいコーヒーを飲もうと思う人は、そもそも缶コーヒーを選ばないんじゃないかって思うのです。
だって美味しいコーヒー飲みたいと思って、同じ店の中に似た値段で売っているなら、わざわざぬるくて(冷たい飲み物の場合は氷の入っていない)量が多くない缶コーヒー選ぶより、入れたて熱くて(氷が入っていて)缶より量がって、自分で味の調節ができるドリップコーヒー選ぶでしょ?(笑)
多分味で勝負しようとすると、従来のように競合財は缶コーヒーではなく、本格コーヒーになってしまうんですよね。
缶コーヒーが淹れたてのコーヒーに勝つなんて、技術的にムリな気がします。
そう考えると同じ缶コーヒーの中で(若しくは缶ジュースの中で)いかに勝負していくかって戦略とった方が効果的だと思うんです。
じゃあどうやって同じ缶コーヒーと勝負するか?

僕たちが缶コーヒーを買う時の商品を選ぶ基準って、ほぼ始めに目に入ったものがどれかって事じゃないですか?
あんまり「今日はどうしても金の微糖が飲みたい!」とかって思って買いに行く人とかいないと思うんです。
まあブラックかミルク入りか位は考えますが、あとはどれ選ぶかなんて結構直感的です。
だったらいっそ、芸術作品ばりにオシャレなパッケージの缶コーヒーとかむちゃくちゃウケ狙いのパッケージの物の方が目に止まりやすいと思うんです。



(2)広告戦略的に有効
もう一つはこちらの観点です。
僕たちがコンビニや自販機でジュースを買うときって、ほとんど直感的に商品を選びます。
そのため、目に付きやすいとか慣れしたしんでいるとかって要素が非常に大切になってきます。
だからBOSSとかGeorgeaをはじめとする缶コーヒーってばんばんCM打ち出したりしていたのだと思うんです。
不特定多数の人に無意識に認知してもらえるタイプの広報手段が、缶コーヒーには相性がよかった。
一方でインターネット広告にはこういう商品の宣伝は相性がよくありません。
インターネット広告の主流は、Webを閲覧している人の検索結果を分析して、その人の趣向にあった広告を表示させるというリスティング広告です。
この広告手法と、不特定多数の認知度を上げたい缶コーヒーの広告は、すごぶる相性が悪いのです(笑)
今は若者のテレビ離れが進んでいると言われています。
そうなると、CMとは別の不特定に認知度を高められる宣伝方法を考えなくちゃいけない。
そういう観点からもデザイン性重視の缶コーヒーっていいと思うのです。
イメージとしては、自販機そのものを広告としてしまうカンジ。
ドミナント戦略じゃないですが、デザイン性抜群の缶コーヒーや、ぶっ飛んだデザインの缶コーヒーが並んだ自販機が街に溢れていれば、自然と消費者の目につきます。
で、相対的に他の商品より印象に残れば、消費者の中に親近感が湧く。
結構認知度を上げるには有効だと思うんです。
しかも高校生とかって徒歩か自転車で毎日同じ道を通って学校いくから、自販機とか目に付きやすい。
おまけに面白いもの好きだから、目に留まるものなら結構ツイッターとかでバズってくれると思うんですよね。
そういった点からも有効な手段なんじゃないかって思ったりします。



なんか味なんてテキトーに仕上げて、デザイン性で勝負するなんて、商品開発の人に言ったらむちゃくちゃ怒られそうですが、今の時代の戦略としては結構間違ってないと思います。
だって今売れてる物の大半って、商品の質そのものよりも、「認知度」×「話題性」の掛け値みたいなところあるじゃないですか。
AKBとかiPhoneとか...
だったらいっそ無駄なCM費と商品開発費削って、デザイン性ばかりに特化した缶コーヒーを作って見てもアリな気がします。